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HYLOGICS

今後は各分室にコンテンツを移して、ここは雑記や暮らしを中心としたライフログ的な何かにしていく予定です。

キリスト教における聖書とは何かをざっくりとまとめる

雑記

以下の解説を書こうと思います。

外国人「コーランと偽って聖書をキリスト教徒に読ませた結果」→「どうしてこんなの信じてるの?」 【海外の反応】 : 海外の万国反応記

旧約聖書は仕方ない。アレはキリスト誕生以前のユダヤ教の話なんだよ。クリスチャンの中でも旧約聖書の否定派は多いと思うし、そもそもクリスチャン自体一枚岩じゃないからね。

2016/01/24 17:18
b.hatena.ne.jp

目次

二つの聖書

宗教に聖典はつきものである。

キリスト教における聖典を「聖書」とひとくくりに呼ぶが、実はキリスト教では旧約聖書新約聖書の2つの聖書がある。

イスラム教ではコーラン(あるいはクルアーン)、ユダヤ教では聖書とそれぞれただ一つの聖典があるのに対し、キリスト教では2つの聖書があるのは何故なのか。

聖書の中身

旧約聖書とは呼んで字の通り旧き聖書、新約聖書とは古き聖書のことだがその中身は全然違う。

その中身はと言うと、みなさんご存知の創世記、ノアの箱舟、ソドムとゴモラバベルの塔などの神話が旧約聖書であり、イエス・キリストの誕生からその死と復活(を使徒達の視点から収めたもの)が新約聖書である。

ぶっちゃけて言うと「旧約聖書」はイエス以前の聖書であり、「新約聖書」はイエス以後の聖書だということ。そしてイエス以前の聖書とはすなわちユダヤ教の聖書*1でもある。勘の良い人ならここで疑問に思うだろう。

なぜキリスト教ユダヤ教の聖書が含まれているのだろうか?

古代イスラエルの興亡

キリスト教の話をする前に、まずはユダヤ教の話をしないといけない。それはユダヤ人たちの物語でもある。長いので簡潔に語ると、

アブラハムが天啓を受けカナンの地に赴く。アブラハムの孫ヤコブの別名がイスラエルであり、彼の名を取りイスラエルの民とも呼ぶ。カナンの地が大飢饉に襲われた際、エジプトの宰相となっていたヤコブの子ヨセフによりエジプトへ招かれたイスラエルの民だったが、その後の王政の興亡により迫害を受けるようになる。

長い受難の時を経て、やがて彼らはエジプトを捨て新しい土地を見出すために流浪の旅に出る。この時の指導者がモーセであり、シナイ山で授かった天啓がかの有名な「モーセの十戒」である。これを編纂したものがユダヤ教における聖書、キリスト教における旧約聖書の基になったと言われている。(ちなみに彼が海を割ってエジプトを脱出したのが出エジプト記。)

その後、彼らはカナンの地に還り自分たちの王国を築き上げた。これが古代イスラエル王国である。イスラエルの王政はそう長く続かず、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエルアッシリアに滅ぼされ、ユダはバビロニア、後にペルシアに併合されることとなる。

バビロニアやペルシアに自由を認められていたユダの民達はエルサレムへ帰還するのだが、そのユダヤの民たちもアレクサンダー大王によりマケドニアに併合され、その後ローマの属州として自治を認められながらも窮屈な生活を送っていた。

キリスト教の誕生と新約聖書、そして旧約聖書

そこに現れたのがナザレのイエスである。彼は苛烈なユダヤの教えを人々にわかりやすく諭し、また貧しきもの、虐げられたものこそ救われるのだと説いた。言うなればユダヤ教イエス一派である。しかし確たる基盤を持たず、また律法より人と神の在り方を是とするイエスをユダヤ評議会ユダヤ教の司祭たちは認めなかった。

危険視されたイエスは評議会により捕縛され、ユダヤの王を自称したと言いがかりをつけられることになった。かくしてイエスはその短い布教に終止符を打ち、磔刑に処せられることになる。

イエスの死後、彼の弟子たちが彼の教えを布教していく。それが後々キリスト教と呼ばれるようになる(キリストとは救世主のことであり、イエス・キリストという人名ではない)。キリスト教は長い間迫害されながらも徐々にその影響力を強め、やがてはイエスの死後300年を経てローマの国教となるに至る。新約聖書はイエスの死後、その弟子たちや教会の手によって纏められたものである。

ここまで読めばわかる通り、キリスト教ユダヤ教と地繋がりであり、キリスト教を理解するにはユダヤ教の一部を理解しておく必要がある。その為に存在するのが旧約聖書である。

聖書の受け取り方

キリスト教徒をクリスチャンとひとまとめにしてしまいがちだが、乱暴に分けてしまうと「カトリック」「正教会」「プロテスタント」の3つがありそれぞれ信仰の形は異なる。正教会は良く知らないのだが、カトリックプロテスタントも主として新約聖書を生活の規範にしてはいるものの、旧約聖書はそんなに大きな扱いをされていない。とあるプロテスタントの牧師に至っては「あんなものは読まなくても良い」とまで言う始末である。実際、「聖書」と言う言葉が「新約聖書」のみを指していたりすることも多いのだ。

それもそのはずである、キリスト教において最も大事なのはイエスの教えであり、またそれを通じて神への信仰を得ることなのだから。

しかし紛らわしい話ではあるとは思う。個人的にね。

*1:を編纂したもの